象、パッチリ二重でまつげが長くてイケメンの気配あり #東山動植物園 #東山80 #オジ旅PR

東山動植物園

流し目、得意そう。

優しそうな、目。見つめられたいー。しわの1つ1つがいとおしいですね。

なお彼らの生活は、ずーーーーーっと、ごはん。睡眠が4時間、散歩しているのも同じくらい。水をちょっとだけ飲んだら、あとはご飯食べっぱなしです。

どれくらいのご飯を食べるのかと思ったら…1日100kg!

そして1日100kgのうんこをします。腸、働きまくりじゃないですか。

ところで東山動植物園の歴史を紐解くと、象の存在が常にあったんだなあと気がつきます。

大正10年、東山動植物園の前身である鶴舞公園付属動物園時代にインドゾウ・花子がやってきました。資料を見ると「花子は特に芸をするわけでもなく、暴れ者で愛想もなかったが、その巨体からか人気者になっている」と記されており、当時の動物園はエンターテインメント性を重視していたことがうかがえます。

東山の土地に引っ越ししてからも人気だった花子。そして日中戦争が始まった頃、昭和12年8月に木下サーカスからアジアゾウのマカニー、エルド、キーコ、アドンがやってきます。曰く、「芸が巧みで、一躍動物園のスターになる。当時、午前2回、午後1回のショータイムがあり、レコードの軍国歌謡が流れる中、ゾウ調教師のノッパ・クン・ウイドラ氏らの指示のもと、タル回し、チンチン電車、「おねだり」などの曲芸を見せて子供らの喝采を浴びていた」。今現在、動物たちに曲芸を教え込むとなると…何か言われちゃうのでしょうか。

そして、昭和18年8月。太平洋戦争・第二次世界大戦のまっただ中。「かわいそうなぞう」の原案となった事件が上野動物園で起こります。そして東山動植物園にも処分の申し入れがありました。当時の園長は非国民と呼ばれながらも判断を引き延ばしましたが、昭和19年12月の名古屋大空襲によって処分を進めます。

昭和20年1月の三河地震以降、東山動植物園は軍の糧秣庫として使われるようになります。これを契機に、軍の糧秣を盗んで生き残っていたゾウたちに餌を与える園長たち。兵もこの行動を咎めるのではなく、見て見ぬふりをしていたとか。そしてポツダム宣言を受諾した8月15日、エルドとマカニーは生きてこの日を迎えました。

大きな身体を持つ彼らは、敗戦後の日本人に生きる力を与えたのでしょう。国鉄は象列車「エレファント号」という団体専用列車を設定。彦根、東京、大阪・京都・草津、埼玉・千葉・神奈川、石川・福井、津から次々と子供たちを東山動植物園へと旅立たせました。

昭和38年まで生きた彼ら。東山動植物園内におはかがあるとのことですが、行くべきだったな…。また行こう。